成長の記録
生まれてからこれまでを簡単に書いてみました
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1974年10月18日 誕生 体重2900g 身長48cm
生後5日目 ダウン症の疑いありといわれる。1ヶ月後小児科でダウン症と確定。3ヶ月後心雑音があるといわれる。心雑音はそれ程気になるものではないのでとにかく普通の子どもと同じように1歳まで育ててそれから血液検査、心臓の検査などをしましょうといわれる。
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1歳まで風邪を引きやすい、お風呂に入るとき呼吸が苦しそうになる等気になる事はありましたが、大きな病気もなく順調に生育。3ヶ月で首がすわり、8ヶ月でお座り、12ヶ月で「マンマ」と言えた。
1975年11月 心臓中隔欠損(軽度)と血液検査の結果 21トリソミ−といわれる
1976年 6月 歩行開始
1977年 4月 札幌市ひよこ学級入園週2回母子通園し療育指導受ける手遊び等は得意でしたが、遊具を使っての遊びは苦手でした。お弁当を持っていくのですが野菜もパクパク食べるので「何でも食べるのね」と驚かれたものです。初めの頃母子分離の時シクシクと泣くので『忍び泣きのやっちゃん』と呼ばれていました。歩くことは好きで夏の遠足でも小さい体でよく歩き驚かれました。風邪はよくひきましたが、ひどくはならずに済むことが多かったです。
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1978年4月 札幌市立かしわ学園入園
バスで単独通園。身辺自立の訓練が始まりましたが衣服の着脱、トイレ、食事の仕方などずいぶん進歩しました。バスの中でいつも見ていた「すすきの」の文字と名前の中にも「す」があるのでいつの間にか「す」を読むようになる。秋に移転したため学園まで遠くなり通うのが大変でしたが、地下鉄を利用することでバスより、広告や利用者が多いことは刺激になったと思いますし、駅のトイレの利用、改札の通り方、階段の昇降などプラス面もありました。色も赤、青を覚え地下鉄の中で乗客の服を見ては「アカ−」「アオ−」と叫んでいました。
1979年4月 北大教育学部乳幼児発達臨床センタ−入園健常児の年長15名、年少15名の中で幼稚園生活を送る。幼児の発達研究機関なので指導というよりは子どもたちがどのように発達していくかを観察するため、2年間のびのびと過ごせたと思う。卒園の時は皆勤賞をもらえました。(実は卒園間際になって2日だけ休んだ)
健常児との遊びを通してずいぶん成長しました。朝の会で自分の名前を言うときも初めは声が小さくて聞き取れなかったのに「ふじたやすよちゃんです」と大声で言えるようになったり、友達が名前を書いているのを真似て字を書こうとし卒園するときは50音はほとんど読めましたが、書く方は10字くらい書けないものがありました。
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ここでの運動会でとってきおきの(泰代らしいとみんながいうのですが)エピソ−ド。障害物競走がありました。泰代は、みんなが飛び越す平均台も手をついてまたがなければなりません。その姿を見ていた人達が笑いました。その時笑っている人達の方を向いた泰代は大声で「笑うな!」と一声・・・そんな子でした。
1981年4月 屯田小学校養護学級入学
校区の屯田小学校に特殊学級が開設されるまで、新琴似小学校の養護学級で一緒に過ごしました。秋に開級した学級で6年間過ごしました。通学には徒歩30分。1年生、姉と登校、下校は迎えに。2〜4年生、近所の上級生と登校3年生まで下校は迎えに。このときお世話になった上級生が今、ある高等養護学校の先生になっています。5年〜6年、今度は泰代が下級生の面倒をみるようにと、3学年下の養護学級の男児と家の近くで待ち合わせて登校。下校は一人で。
4年からのクラブ活動は普通学級の子どもと3年間料理クラブ。(この時クラブで毎回必要な物をメモしてくれた子のお母さんが泰代の中学の養護学級の先生となりお世話になりました)。4年からの委員会活動は年長児の女子がいなかったので学級委員として参加。2年生から給食時のみ普通学級で。5年の宿泊研修は普通学級のグル−プの一員として参加。6年の修学旅行は養護学級で参加したもののほとんど普通学級の児童と行動を共に。(この時同学年で泰代と遊んだことが忘れられなくて今、ある町の障害児療育センタ−で指導していますという方から昨年お手紙をもらい嬉しくなりました)
卒業の思い出をスライドで見た時の先生のコメント。4年生泰代が写真の真ん中でひじを張り、足を広げて立っています。「このころから、泰代さんはクラスの中で一番威張っていました」・・・こんな子なんです。
小学校時代は子供会に入って近所の子どもたちと一緒に活動もしました。5年生から絵の教室に通いましたが、これは交通機関の練習と普段全くつき合いのない他の学校の子どもたちとも触れあう機会を持ちたいとの思いからでした。
小学校2年の時、内斜視の手術を受けました。けれどそれまでに視力が弱くなっていて現在も眼鏡使用でどちらの目もいい状態で0.4位しか見えません。ですから登下校は嫌いな犬の出現を気にしていて遠くに動く物発見!犬だと思って遠回りしたら実は新聞紙の丸めたのが風で動いていた等という話には事欠きませんでした。
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1987年4月 新琴似北中学校養護学級入学
徒歩40分の通学、体力づくりの運動、作業学習 など小学校とは違ってかなり厳しいものでしたがあまり苦もなく乗り切りました。高校に行くんだという意識が強く (小学5年の時に見学した高校が印象に強く残り絶対2段ベッドの寄宿舎の高校に行くといつも言っていました)何事にも、積極的に取り組んだように思います。中学時代は短距離は結構早く走りました。全市の特殊学級の運動会のリレ−にも出たりしました。先に走っている人がいると抜かなくては気が済まない・・・そんなところのある子でした。
中学時代に自分はダウン症であることを認識したようです。どうも誰と誰の顔が似ているといことに気づき、小鳩会の集まりでもそうだと気づいたようでみんなダウン症と説明したのですが最初は私は違うと認めようとしませんでした。けれど徐々に私も小鳩会の人で同じだねと言うようになりました。難病連の大会で難病患者のお世話をするボランティアの方達を見て刺激を受けたようで、自分より少し手の掛かる友達を積極的に手助けするようになり、担任の先生にもいい経験を積んだようですねと言われました。
中学時代は校区が違ったのですが普通学級の子とほんの少しですが交流がありました。スキ−学習のバスの中で友達になった女の子が4人わざわざ家まで遊びに来てくれおしゃべりしたり、ゲ−ムしたりしていました。誰とでもすぐ友達になれることはすばらしいと思ったものです。
1990年4月 雨竜高等養護学校美唄分教室入学
3年間だけ特別にできた雨竜高等養護学校美唄分教室に産業科に入学。雨竜高等養護学校は映画学校Uのモデルになった学校。生徒30人の分教室は設備も本校とは違い、寄宿舎も小中学校の寄宿舎を活用したものだったので泰代の思い描いていた生活とはちょっと違ったようですが、その足りない分、先生方の愛情と30人の友情が強く、楽しい高校生活を送れたようです。親元を離れ自分で考え、自分で何事にも挑戦しなければならないことを自覚したように思います。
好きな人ができたり、おしゃれをおぼえたり、それまでは何事もきっちとしなければといったところが強かったのですが「ま、いいか」と言えることも覚えてきました。夏休み刺し子に取り組んで汗で針がさびたこともあったほど集中する力もつきました。この3年間で泰代はぐんと大人になりました。美唄から一人で帰省する日、予定の時間より遅く帰宅しました。先生からも「まだ帰りませんか?」と電話がありました。遅くなった理由を聞くとバスタ−ミナルで苫小牧に帰る友達のバス時間まで一緒に待っていてあげたと言うのです。「これからまだ一人で帰るのかわいそうでしょう」・・・そんなところもある子です。
産業科は窯業を中心に学習しましたが、他の科の家庭科、木工科の実習もありました。理解力別に4段階に分かれた国語、数学、他に体育、音楽など授業がありました。泰代は国語はBクラス(小学生の国語辞典を使えることがBクラスになった基準のようでした)、数学はCクラス(簡単な加減算ができるが基準のようでした)でしたが数学は引き算は全くと言っていいほどできませんでしたし、足し算も繰り上がりのあるのはできませんでしたから大変だったろうと思います。
高校時代は日記を二冊書いていました。一つは担任の先生に読んでもらう物、もう一つは寄宿舎の先生に読んでもらう物。それぞれに毎日あったことを書いていたのですが、それに対する先生からの一言が泰代は楽しみだったようです。家に帰ってくると読んでもいいよと見せてくれ、美唄での生活と泰代の心の動きがよくわかるものでした。人間関係の難しさも十分に経験した様子がよくわかりました。
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1993年4月 社会復帰共同作業所入所
貸しおしぼりの作業(洗い、たたみ、袋詰め)をする手をつなぐ親の会の作業所に入所。毎日山と積まれたおしぼりを畳む作業に従事。当時は月曜から土曜日まで勤務。水曜日は2時終わり、あとは9時から4時まで作業。祭日も出勤。祭日出勤分は代休がとれるのですが泰代は冬に風邪引いて休む時のために夏場は代休をとりませんでした。代休がなくなって休むとお給料からわずかですが引かれるからです。一日中の立ち作業は初めは足を痛がりましたがだんだん慣れました。ここにいる間に太鼓のグル−プに入って練習し退所が決まった時に行われた区の行事でやっと舞台に上がることができました。いい思い出になりました。
こんなことがありました。夏の間はバスに40分乗って通いましたが、冬はバスが遅れるので地下鉄とバスを利用することにした第1日目、一人で大丈夫だろうか心配しましたが本人は自信満々で出かけました。地下鉄の駅から東へ行くところ、その日は雪が降っていたこともあって方向を間違え西へ歩いてしまったようです。途中でに西6丁目の標識を見たのですぐ電話ボックスから作業所に電話をかけ「私迷子になりました。西6丁目の電話ボックスにいます」と伝えることができ指導員の方が迎えに来てくれたのですが、家には何も言ってこず帰宅した娘の連絡帳に(お母さん今朝は心配したでしょう。ちゃんと迎えに行きました。泰代さんの素早い対応の仕方に感心しました)と書いてあったので何のことか娘に尋ねて真相を知りました。こんな対応が一人でできるようになったとはとても嬉しいことでした。
94年1月の成人式(札幌ではその年に20歳になる人のお祝いをします)は、手をつなぐ親の会の成人を祝う会にに出席し30数名の成人を代表して泰代が500名の出席者の前で誓いの言葉を読み上げました。堂々と大きな声で読み上げることができみなさんにほめていただきました。
94年の夏に過換気症候群の発作を起こしました。青年学級で小樽へ行く途中のバスの中で突然呼吸困難になり病院にかつぎ込まれたものの、ベッドの上ですぐ何事もなかったように元気になったとの知らせを受けました。翌日の脳神経科の診断では脳波にほんのちょっと異常が見られるが心配するものではない。発作は過換気症候群でしょうといわれ、対処法として同じように苦しくなった時にビニ−ル袋を口に当てて呼吸するように言われました。それ以来いつも」ビニ−ル袋を携帯しています。その後袋を使うことは起きておりません。
1995年8月 あいのさとアクティビティセンタ−入所
デンマ−クの施設に学んだこの新しい施設はユ−ザ−の自己決定を大切に今までの施設の労働中心のあり方を考え直し、スタッフとユ−ザ−とは人間として対等であるという考えで運営されています。まだ新しい施設でこれからの活動を見守りながら協力していきたいと思っています。泰代は自分でここがいいと決めたので満足しています。フィンランドで見てきた障害者の生活が泰代は言葉ではうまく表現できなかったのですが、何かを与えたように思います。フィンランドで「ここに住みたい」と言ったのを忘れられません。
現在はこのセンタ−で1997年5月に作った自然食品のお店アクティブで働いています
母親のつぶやき
振り返ると思い出すことはいっぱいあります。その一つ一つを記していたら膨大なものになってしまいそうです。23年前はダウン症の本はほとんどなく医学書を読むと気が滅入る語句ばかりが並んでいました。幸いにも私はあまりいやな思いをすることはなくて済みましたが、医師に「今は座敷牢なんてないですからね」と信じられない暴言を吐かれた友人、病院で「これがダウン症だよと」見せ物扱いされた友人、そのようなことをたびたび耳にする時代でした。
ダウン症児の親の会小鳩会には10ヶ月の時に入会し、次の年から現在まで途中2年ほど抜かしてずっと役員をしてきました。よく続いているなと思いますが、その母親の姿を見ているからでしょう、この数年前から泰代は小鳩会の行事にはボランティアとして参加しています。行事の内容・進行は長年の体験でわかっているので、指示されなくても自分が何をしたらよいのか考えて自分で行動することが多いようです。幼い子どもが大好きなので今後もこの活動は続けていくと思います。
泰代は特にこれという自慢できるものはない娘ですが、日々楽しく元気に生きているのが一番だと思っています。今親元を離れ自立の道を歩み始めたばかりの娘ですが、普通の若い娘と同じように暮らしています。おしゃれも、食べることも、音楽も好きです。恋もします、失恋もしました。選挙の投票も2回経験しました。幼い頃からこの子が大人になった時どんな娘になってほしいかを考えて日々一緒にお互いを育て合いながらここまできました。これからどんなふうになっていくのか楽しみにしていきたいと思います。